害獣駆除経験と荒川の鹿から思う事。(閲覧注意)
肉にすればいいじゃん。
東京に出る鹿と北海道に出る鹿の何が違って引き取り手を探しているんだろう。
でも殺処分は勿体ない(屠る場合、直前まで生きていた方がやっぱり上手い。そう簡単に生きてる状態のケースは少ない)から山梨などでありそうなジビエ工場に持っていって精肉にしてもらえば、品質の良い肉が出来上がるのでそうしてもらえばいいのだ。
不快感を感じる?
ではなぜ、こういった話が今の日本ではできないのか?
かわいそうだから?意味がわからないね。
じゃあ同じ日に同じように鹿がとれたとしよう。
こいつらは…
こうなって
こうなった。
同じ鹿だ。
なんで一方は生きて動物園送りにされて、一方は死んで俺の胃の中入らなきゃいかんのか。満足のいく説明のできる人は少なくなってきている。
正々堂々と命と生き物について考えなければいけない。
こういう話題には「かわいい」からとか「かわいそう」とかそういった感情が根にあってフワッとした話で終わることが報道やSNSでは多い。子猫の映像をひたすら流す動物番組を視聴したり、屠るという一番嫌な現場にいることが基本的にない現代人には当然そういった発想しか出来ないし、したくもないのだろう。だが、これはやがて大きな問題につながる。
個人個人の感覚が鈍り、決断力が鈍るのではないか。
人生はいろいろなことは考えなければならないが、取捨選択はしなければいけないときがある。そのとき、思い切った決断が出来なくなりずるずると引きずるのだ。
個人が集まってできる社会にも影響を与えて決断力が鈍る。何かの取捨選択が出来なくなる。社会構造的な硬直性が起きる。
当然それは政治にも教育にもあらわれる。私達はそれを最近見ているではないか…。
日本社会の腐敗は、間接的に何かの命を奪っていることを忘れてしまった弊害ではないだろうかと…。